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『生涯一捕手』といえば野村克也。そこで思い浮かんだこのタイトル。このページでは私の敬愛する染織家、山崎桃麿先生とその塾について、ご紹介させていただきます。叱り声が飛んできそうなのを覚悟しながら、書かせて貰います。以下よろしくお願いいたします。

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晩秋の草木染月明塾

青梅からさらに五つ奥多摩方面に向かったところの、軍畑(いくさばた)にある染織工房を訪ねたのは2001年の六月。梅雨の最中で、庭の木々の緑がますます深さを増し、雨に打たれる音もまた嬉々として聞こえるほど、そこは生命力に溢れていた。なんとなく見ていた着物の本に紹介されていて、このような場所が東京にもあるのだと知ったら、むしょうに見てみたくなった。きっかけはそれくらいのことなのだが、環境や景色に惹かれ易いタチである自分が、そのまま見学だけで帰れるはずもなく、即座に入塾を希望したのは当然である。加えて先生と奥様のお人柄や、隔世感のある暮らしぶりには、今もなお惹かれ続けている。

工房内には高機が十二台、奥には染め場、糸を染めてから機にかけるまでの全工程をやるためのあらゆる道具、一度に男巻きをするための長い床などがあり、ここでは染色と織りの全工程をゆっくりと学ぶことができる。とはいえ先生は口癖のように「俺は教えないからな、先輩に聞け。自分で考えろ」といわれる。そう言われると怖いからひるみがちになるけど、聞いたら何だって教えてくれるのだ。だったら直接聞いたほうが間違いがなくていい。月ごとのお金も月謝でなく、施設利用料なのだそうだ。
そんな山崎先生は2006年で傘寿になる。それでもまだ晴れた日は糸を染め、雨の日は機を織るという暮らしを続けている。「人間は物を残さなきゃいけないんだよ。物が残れば歴史が残る。正倉院の御物の布は千年経っても色を残している。ここできちんと染めて織ったものも歴史として残るはずだ。」

入り口から工房内を見る

晴れた日の庭には、いつも誰かが染めた糸が干してある。陽に当たることで糸は発色を増す。染め上げるときに糸を通る水も大切だ。この工房と、先生の住まいのすぐ裏には澄んだ多摩川の支流が流れていて、その水を使っている。無濾過で飲める水だから、色もきれいに出るし、お茶もすごくおいしい。
染材になる植物も庭に多種植えられている。それらを知るほどに野山を歩くのが楽しくなる。一位、やまもも、栗、クヌギ、葛、びわ、茜、小鮒草、臭木、桑、マルハアカソ・・・。「草木は毒草以外ならどんな植物でも染められるけど、園芸種でないもののほうが色がよく出る。草根木皮は漢方の生薬のことをさすように、これら染色材料の多くが薬草であるのは興味深い。茶系の色を出す渋(タンニン)には傷口や血管をおさえる働きがあり、おそらく傷を治すために植物の汁を塗り、白い布で縛ったとき、その布に色が染み付いたのが染色のはじめであったろう。だから、天然の染料は体にいいのだ。」

年末の大掃除の日に

2005年の七夕/左端が山崎先生

先生は染織家なので、七夕さまをとても大事にします。毎年梅雨が明けるか明けないかの微妙な時期にやるのですが(土曜日ということで、日程は毎年違う)、必ず晴れます。しかも裏の川には蛍が出るんです。ここに移り住んで、50年が過ぎるそうですが、完全にお天気を味方にしています。自然相手のお仕事ですから先生にとっては当たり前のようですが、都会暮らしに慣れた人間にとっては、神がかりのように思われます。「俺は晴れ男なの。」と、自分でもおっしゃいますが、研修旅行などその他のイベントでも、天気予報がいくら悪かろうと雨を降らせません。
ちなみにこの土地に来られたのは、先生のお父様が親交のあった日本画の河合玉堂氏が近くに住んでいて、玉堂氏の紙を漉くために移り住んだということです。お酒が大好きで、地元澤の井の大辛口をひいきにしています。

こちらは準備風景

工房に来ている人たちは、10代から90代まで、幅広くいらっしゃいます。お昼と、掃除の終わった三時半はお茶の時間です。女性がほとんどなので、僕はちょっと肩身が狭いんですけど、お話の内容はいつも興味深く、楽しいです。若い子たちが先輩方のお料理や介護の苦労話、子供や孫の話などを上手に聞く様は、なぜか心打たれます。ちょっと前の日本だったら、ありふれた光景だったのかも知れない。世代間の交流が難しいなどと言う理由がわからないくらいに、オープンなお茶の時間がここでは日々繰り広げられています。

お茶の時間

藍染め研修2005 松本

紅花研修2004 山形

藍と紅花は媒染をしない特別な染めなので、工房ではやりません。そのかわりに生徒の熱意と先生のご好意により、研修旅行が行われます。

シルクロードの東の果ての日本へ藍が伝えられたのは、5〜6世紀の頃。そして日本の風土に根差し、ようやく開花したのが飛鳥・天平時代。正倉院に一千余年もの間伝えられた宝物のなかにも、藍で染められたものは多数ある。藍がどうして人間の生活に取り入れられたかを考えると、後漢の頃の書といわれている「神農本草記」に、藍を「上品薬」としてあげており、その説明に「諸毒を解す」とし、いろいろな毒虫の毒を中和させる方法を述べている。日本の至るところで、藍染めのものが蝮除けに有効であると考えられている理由は、実際には蝮が藍染めの匂いを嫌うということであり、その根本的な原因としては、蝮が、自分の武器である毒さえも藍にはかなわないということを、長い経験の結果として、本能的に感じ取っているからではないだろうか。
エジプトのミイラの爪染め、赤く染めているのは魔除けだったと思われる。これはインドやビルマ、中国南部にも伝わっているが、紅花染めではなく「つまくれないの木」の葉汁と石灰によるものである。琉球や長崎、博多、天草あたりにまで伝わっているがこちらは「つまくれないの草」の花、いうところの鳳仙花で染めるようだ。ネパールの寺院では、紅花の黄汁をストゥーパ(塔)に石灰汁と一緒に塗って、塔を黄色に着色する。赤は血の色であるから悪魔が忌み嫌うであろう。また赤(や黄)は火の色、陽の色であるから自分たちと同じく、悪魔もまたこれを恐れ崇めて近寄らないであろうと考え、世界の至るところで魔除けに使ったものと思われる。ちなみに紅花は赤と黄色の色素を持つが、これを分けて使うのは日本だけというのは摩訶不思議なり。口紅も食べ物を取り入れる口に塗る訳で、もとは化粧でなく魔除けだったんですね。

参考文献/色と染め 上村六郎 毎日新聞社

私の作品

For 自分 /経糸 黒:やしゃぶし,ロッグウッド 
            白:生糸のまま 
       よこ糸 黒:やしゃぶし、ロッグウッド

For 母 /経糸 水色:臭木の実
     よこ糸 ピンク:蘇芳

For 兄 /経糸 濃茶:やしゃぶし鉄媒染
          金茶:やしゃぶし明礬媒染
      よこ糸 濃茶:やしゃぶし明礬媒染

For父 /経糸 グレー:紅梅 銀:臭木のがく
    よこ糸 グレー:紅梅 銀:臭木のがく
        (赤い部分は試し織り)

はじめの二年半ぐらいは、先生や他の生徒さんのお手伝いなどして、糸に慣れさせて貰います。先生は多摩シルクという東京の絹糸をこだわって使っています。かつて多摩地域は養蚕や織物が盛んな地域でした。経糸は生糸、よこ糸は紬糸を使います。先生は、「練習だといって安い糸を使うようなところもあるけど、はじめからいい糸を使わなきゃだめだ。」と言われます。やってみるとその真意がわかります。週に一回のペースで塾へ通い、往復が四時間、作業時間が四時間、それで一反つくるのに糸を染めて織り上げるまで半年かかるのですから。それは緊張もするし、慎重にもなるってものです。どの作業ひとつとっても、ミスが後々にひびくのです。しかも原則として後戻りができません。

糸の道は、人体のFascia(生体膜)によく似ています。こんがらがっているようでも、お蚕様は必ず一本の糸として吐き出しているのですから、勝手に切ったり繋げたりすると、余計にややこしくなります。
人体も外科手術を行うと、部分的には機能が取り戻せるけど、生体膜の連続性が絶たれることの弊害についてお医者さんはあまり言いません。機と人体の構造にも似たものを感じます。先生の工房にある機はいずれも明治から昭和初期の時代のものだそうですが、その時代の機は金目のものを全く使わず、ほぞで組み上げているため、「遊び」があります。そのために、かつて織っていた人の癖がついています。そしてまた自分の癖にも柔軟に対応してくれます。そのまま織り進めるとどうもよろしくないという時には、しばらく休ませると、機が自然とニュートラルなポジションへ戻してくれています。その瞬間に自分のアンバランスに気づいて、今度は自分の体の使い方を調整していくというように、対話ができるのが「遊び」のあるいい機と言えるんじゃないでしょうか。機能の機を機(はた)と読ませるあたり、昔の人もきっと同じようなことを感じていたのかもしれません。
人体の関節も遊びがあるから、それぞれ動きに癖がありますけど、それがなかったらロボットのようですね。遊びの無い体との対話は難しいので、ロルフィングでは、関節にスペースをもたらす、すなわち『遊び』をつくるというような概念で体をとらえていきます。先生もまた「染織には遊び心がなきゃいけないよ」と言われます。学びの語源は真似をすることの意から来ていますが、もっと遡れば真似っこという遊びが学びのルーツであったとも言えそうです。

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